インタビュー取材にご協力いただいた方
木下 翔太郎(きのした しょうたろう)氏
慶應義塾大学 医学部
ヒルズ未来予防医療・ウェルネス共同研究講座 特任助教
1989年神奈川県生まれ。千葉大学医学部在学中に国家公務員総合職採用試験に合格し、卒業後は内閣府に入府。高齢社会対策、子育て支援などに従事し、高齢社会白書の作成にも携わる。内閣府退職後、東京女子医科大学東医療センター、慶應義塾大学 医学部 精神・神経科学教室を経て、2021年より慶應義塾大学 医学部 ヒルズ未来予防医療・ウェルネス共同研究講座 特任助教。精神科医・産業医として勤務する傍ら、医療政策や予防医療などの研究に従事。著書に『国富215兆円クライシス 金融老年学の基本から学ぶ、認知症からあなたと家族の財産を守る方法』(星海社)、共著に『企業はメンタルヘルスとどう向き合うか』(祥伝社)がある。
少子高齢化社会の日本では認知症の高齢者が増加しています。認知症になると判断力や理解力が低下し、消費者トラブルに巻き込まれるリスクが高くなります。また特殊詐欺の犯罪者にも狙われてしまうでしょう。
認知機能が低下した場合、どのようなリスクがあるのか、認知症の高齢者の家族が知っておくべきことは何か、認知症とお金の問題を解決するための制度とは何か。そこで今回、精神科医・産業医として勤務する傍ら、医療政策や予防医療の研究に取り組まれてきた慶應義塾大学の木下 翔太郎先生にお話を伺いました。
認知機能が低下した場合の問題
―― 認知症が進行した場合の問題点とはどのようなことでしょうか? また認知症の高齢者が金銭トラブルに巻き込まれてしまう背景にはどのようなことがあるのでしょうか?
木下先生:認知機能が落ちてくると、注意力の低下が起こるため、転倒しやすくなるなど肉体的なトラブルが起こりやすくなります。また、金融に関する理解力や判断力も落ちてしまいます。財産や通帳をなくしたり、保険に入っていたことや株をもっていたことを忘れたり。お金の管理がうまくできなくなり、消費者トラブルに巻き込まれるリスクも高まります。
日本の場合、認知症の高齢者の増加によって懸念されることは、そうした方の金融資産(タンス預金や銀行預金なども含む)が多いということです。悪質業者や犯罪者に金融資産を狙われ、電話勧誘販売・家庭訪販などの強引な勧誘、かたり商法、ワンクリック請求、還付金詐欺などの被害にあいやすくなります。
―― 認知症の高齢者について、オレオレ詐欺や還付金詐欺のような特殊詐欺の犯罪者はどのように情報を得ているのでしょうか?
木下先生:特殊詐欺被害のほとんどは自宅の固定電話がきっかけです。電話帳、あるいは名簿など流出した個人情報リストの中で、高齢者にターゲットを絞り、電話をかけています。認知症が進行する前に、防犯対策として番号表示・非通知拒否サービスやメッセージの録音機能を付けることで、被害を防ぐことが重要です。
―― なぜ犯罪者は認知症の高齢者の金融資産を狙っているのでしょうか?
木下先生:高齢者は、一般の人たちが想像している以上に、資産を持っています。第一生命経済研究所の試算によると、認知症の高齢者の金融資産だけでも2017年度末時点で143兆円、2030年度時点では215兆円に達するといういわれています。資産を放置したまま高齢者が認知症になると、金融トラブルや犯罪に巻き込まれるリスクが上がってしまうでしょう。
参考URL:第一生命経済研究所 調査研究本部 経済調査部「認知症患者の金融資産200兆円の未来」
認知症による金銭トラブルの具体的な実例
―― 認知症による金銭トラブルの具体的な実例を2つ教えてください。まずは1つ目から教えてください。
木下先生:71歳の一人暮らしの女性高齢者のケースです。女性が「アルツハイマー型認知症」と診断されたため、家族は女性が頻繁に通っていた百貨店に対し、女性に商品を販売しないように依頼をしていました。しかし百貨店側は女性に商品を販売することを継続し、女性は百貨店のブティックで280点もの婦人服を購入しました。そこで、家族は意思無能力や公序良俗違反を主張し、売買代金1,100万円の返還とそれに対する法定利息の支払いを百貨店側に求め提訴しました。判決では一部の取引が無効とされ、合計額約240万円の返還と法定利息の支払いを百貨店側に命じました。
―― 2つ目の実例について教えてください。
木下先生:60歳の元トラック運転手のケースです。男性は認知症によって、妻や医療従事者との意思疎通も十分にできなくなっていたにも関わらず、銀行から投資信託を800万円で購入しました。男性も妻も金融商品取引は未経験で、主に妻が銀行から説明を受け、購入しました。男性と妻は元本保証がされているかどうかを銀行に何度も確認し、元本が保証されるものと理解して購入したとのことですが、しかし結果として、売却時に約417万円の損失が発生しました。そこで男性側は意思能力による取引の無効、錯誤による取引の無効、適合性原則違反及び説明義務違反などによる不法行為を主張し提訴。裁判では、契約前の入院時の記録から意思能力が相当低下していると判断され、男性が勝訴しています。ただし、銀行側の錯誤による取引と不法行為は認められませんでした。
―― 2つの実例からどのようなことが学べるでしょうか?
木下先生:こうしたトラブルに発展させないためには、認知症の患者の家族と企業側両方からの対策が必要です。まず家族の場合について。高齢者の認知機能が低下する前に、お金の管理方法について本人の希望を聞いたり、認知機能が低下したら誰を後見人にするのかについてあらかじめ決めておいたりすることが重要です。
認知機能が一定以上低下した後は、法律上は契約ができなくなっているはずなので、ここで紹介した例のように取引が行われてしまうと、後からそれを「無効だった」と訴える必要が出てきてしまいます。その際に、医療記録などがしっかり残っていない場合、後から「あの時認知症だった」と証明することが難しくなるケースもあります。このようなトラブルがそもそも起こらないように対策をとるのが望ましいでしょう。
次に企業側について。顧客が認知症ではないかと疑われる状況において、取引を優先してそれを黙認していると、ここで紹介したようなトラブルに繋がる可能性があります。判例を見ても、企業側に悪意がなかったケースでも取引が無効とされるケースも多いのです。高額取引の場合、企業は顧客の認知症リスクをある程度チェックしておく必要があります。
最近では、こうした事例の増加から、高齢の顧客との取引については注意が必要であることが企業の間でも浸透してきています。一方で、企業側が認知症のリスクを過度に恐れるあまり、一定以上の年齢の人とは取引しない方針をとるといった逆差別のようなことも起きていると聞きます。認知機能に問題のない高齢者が年齢を理由に取引を金融取引から締め出されることは、「金融排除」として昨今問題視されています。年齢ではなく認知機能や判断能力に応じて取引すべきでしょう。
認知症の高齢者の家族が知っておくべきこと
―― 認知症の高齢者の家族が知っておくべきこと、備えておくべきことがあれば教えてください。
木下先生:認知症が進行する前に、高齢者の意思を踏まえて、どうするかについて準備しておくことが必要です。家族の中でそのような会議をする機会がないと、いざという場合、何もできなくなってしまう可能性があります。認知症の高齢者を狙った特殊詐欺や金銭トラブルは年々起きていますので、リスクがあることを知っておくべきだと思います
―― 特殊詐欺がより巧妙になっていくなかで、高齢者の被害を防ぐために家族はどのような対策を講じるべきでしょうか?また、とくに、一人暮らしの高齢者を守るには、何が必要でしょうか?
木下先生:このような防犯の文脈だと、まとまったお金を高齢者が1人で管理し、いつでも使える状態はリスクが高いですよね。預金を分散させる、クレジットカードの利用金額や預金の引き落とし金額に上限を設けるなど、たくさんのお金を容易に動かせないようにすることが重要になります。例えばクレジットカードの使用状況を知らせるメールアドレスを家族に設定し、カード利用について不自然な点が見られた場合、家族が電話するといった、トラブルに気づける仕組みづくりが重要だと思います。
お金をどのように保管して管理すべきかについて司法書士や弁護士などの専門家に相談することも参考になるかもしれません。
頼りになる家族が同居していない場合、行政や民間の警備会社が提供している見守りサービスを利用すると、高齢者の状況を定期的に見てもらうことが可能です。また、トラブルに巻き込まれた場合、地域包括支援センターに相談したり、消費者ホットラインの「188」に相談したりすると良いでしょう。
認知症とお金の問題を解決するための制度
―― 認知機能や判断能力が低下した人を救う手段として成年後見制度があります。
木下先生:認知症が進行した高齢者が使える手段として成年後見制度があります。成年後見制度とは、意思能力や判断能力が不十分な人を支える制度です。制度を利用すると、意思無能力になった本人の代理で成年後見人が手続きを行ったり、契約の取り消しを行ったりすることが可能です。
しかし成年後見制度も完璧な制度ではなく、資産が本人や家族の意思で動かせなくなる問題や後見人による不正のリスクがあります。家族を後見人にした場合だけではなく、弁護士や司法書士といった外部の専門家に委託した場合でも、不正な使い込みが発生しています。
―― 成年後見制度を使わないという選択肢はないのでしょうか?
木下先生:一定以上認知症が進行してしまうと、さまざまなサービスの契約が本人のみではできなくなります。そうした状況になってから、介護などの生活上必要なサービスについて契約しようとする場合、成年後見制度を利用せざるを得ません。先程も申し上げましたが、後見人がついてしまうと、生活費や必要なサービスなど用途が限られてしまい、本人や家族の希望でお金を自由に使うことが難しくなるといった問題があります。認知症の高齢者の金融資産は近い将来215兆円にも上がります。こうした資産の流動性が損なわれることは経済への影響も大きいでしょう。
そこで高齢者が家族に財産を残したいとか、孫のために財産を使いたいといった希望がある場合、認知症が進行する前に生前贈与や家族信託などのように、資産を移転しておくことがおすすめです。例えば「自分の財産は孫の教育費に使ってほしい」と家族信託契約を結ぶことで、託された家族は指定された範囲内であれば自由にお金を使えます。また、後見人による使い込みのトラブルも防止できます。
―― 認知症が進行すると遺言書も作成できなくなります。
木下先生:自宅で遺言書を作成し、保管している高齢者は多いと思います。しかし認知症が進行すると保管場所を忘れたり、捨ててしまったり、悪意をもった相続人から改ざんされたりといったリスクが発生します。そうしたトラブルを避けるための制度が法務省による「自筆証書遺言書保管制度」です。制度を利用すると、法務局において自筆の遺言書の原本を保管してもらえるだけではなく、保証書も発行されます。ひいては、家族に遺言書の存在を伝え、遺言書の紛失や改ざんリスクを防止できます。
―― 最後に読者の方に向けてメッセージをお願いできますか?
木下先生:以前、私は日本の認知症とお金の問題について国際的な医学雑誌『The Lancet Neurology(ランセット・ニューロロジー)』に投稿したことがあります。認知症の高齢者の金融資産が、いずれ215兆円に達すると書いたところ、海外の編集者に「桁を間違っているんじゃないか?」と疑われたことがあります。日本の政府資料にも掲載されており、事実であると伝え、納得してもらえましたが。
日本は現在、景気があまり良くないと言われつつも、それでも世界的に見ればかなり金融資産を保有しています。とくに高齢者が金融資産を保有していることが顕著です。今後、高齢者の割合は増加傾向にあるため、適切な予防策を取らないと、認知症を巡るトラブルは増えていくでしょう。
身近でそのようなトラブルがないと、他人事だと思うかもしれませんが、今後、親族や知人・友人などからそのようなトラブルについて話を聞くケースも増えてくるでしょう。家族で予防できることもありますし、生前贈与や家族信託を利用することで、高齢者の希望を叶えられるということは、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。
木下 翔太郎先生のご紹介リンク:
ー 慶應義塾研究者情報データベース